河守晃芳のブログ

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絶望の中に射す光 
〜全盲の偉人、ジャック・リュセイランについて〜


1.はじめに

 私たちは普段、当たり前のように「見る」ことができる。目が見えることなど、当然のことだと感じているに違いない。しかも、目の見えない障害者と関わる機会すら、ほとんど存在しないと言っていい。しかし、それらのいわゆる「障害者」たちが、私たちに対して偉大なる示唆を与えてくれると言ったら、あなたは驚くだろうか。

 ジャック・リュセイラン(Jacques Lusseyran)。地獄のナチス強制収容所を生き抜いた英雄であり、フランスにおけるレジスタンス活動(ナチスに対する反逆的活動)のヒーローである。彼は、フランスはおろか、ヨーロッパにおいて非常に有名な人物である。だが、とりわけ彼を有名にしたのは、前述した実績に加え、彼が「全盲」の障害者だったことだ。彼は、盲人であったにもかかわらず、ブーヘンヴァルト強制収容所における生還者となり、加えて、大規模なレジスタンス活動を率いた偉大なリーダーでもあった。さらに、後世における彼の影響は凄まじく、彼がレジスタンス活動の中で発刊した新聞は、のちにパリで最も重要な日刊紙「フランス・ソア」となった。このように、彼はフランス社会に多大な影響を残すことになる。

 そんな、フランスでは有名な彼であるが、日本人でジャック・リュセイランを知る人物に出会ったことがない。彼の著作に『And There Was Light』と『Against the Pollution of the I』という英文で書かれた本があるが、それらの本は一冊として日本語に翻訳されていない。さらに、彼の名前をGoogleで検索してみても、彼に言及したページは日本語では数ページしか存在しないほどだ。アメリカではwikipediaにも掲載されているほどであるが、日本語の情報は皆無と言ってよい。ネットを見る限り、彼に興味を持っている人物は、日本人では私を含めて2人しかいないことがわかる。彼は、日本では不当なほど無視され続けている人物なのだ。

 私は彼のことを中学1年生の時に知って以来、多くの日本人に知って欲しいとずっと願ってきた。彼の本は、素晴らしい示唆に満ちているのに加え、とても感動的だ。彼の本が日本語に翻訳され、多くの人に読んでもらう日が来ることを願い、この文章を書いた。

 特に、私が彼に着目する上で強調したいのは、彼の盲目に対する前向きな捉え方と、そこから得られた神秘的な世界であろう。私たちの多くは、身体の障害というのは、不運なことだと思っている。否、思い込まされている。特に幼児期においては、障害者という存在が嘲笑の対象になることも、しばし多かったかもしれない。しかし、ジャックは、仮にもう一度生まれ変わるとしても「やはり自分は盲目であることの方を躊躇なく選ぶ」と明言している。

 一体、彼をそこまで言わしめるのはなんなのか。目の見える私たちにとっては、不思議に思うだろう。ただ一つ言えることは、盲人には盲人にしかわからない世界が見えているということだ。それは、「目」という最大の感覚器官がシャットダウンすることによって、他の感覚が異常に鋭敏になることで発生する。点字を見れば、盲人たちがあまりにも繊細な指先感覚を持っていることは明白だ。点字に目をつぶって触ってみたことがある人ならわかるかもしれないが、正直、あれから読解するなど、絶対に不可能だと感じる。奇跡的に鋭敏な触覚を持っていなければ、到底、点字を「読む」ことなどできやしない。

 思えば、芸術的な偉人に盲人が多いことに気づく。ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで、日本人として初めて優勝した世界的ピアニスト、辻井伸行氏も盲目だった。世界最⾼峰のテノール歌⼿、アンドレア・ボチェッリも盲人だ。彼の障害を乗り越えて歌手として大ブレイクするストーリーは『アンドレア・ボチェッリ 奇跡のテノール』という映画にも描かれている。加えて、10曲もの全米ナンバーワンシングルを送り出し、グラミー賞で合計22部門の賞を受賞したスティーヴィー・ワンダーも、全盲ではないがほとんど目が見えなかった。盲人たちには、私たちの知らない、かつ、決して見ることのできない景色が見えているのだろうか。

 特に、「生まれ変わっても盲目を選ぶ」とまで言ったジャック・リュセイランとは、どのような人物なのだろうか。そして、そんな彼がレジスタンス活動のリーダーとなり、強制収容所を生き抜いた人生とはなんだったのか。ここでは、盲目の究極の地平を見たジャック・リュセイランについての、卓越したストーリーに耳を傾けていこう。

2.失明とその神秘

 ジャック・リュセイランは、1924年9月19日にフランスで生まれた。非常に快活な子供で、そばにいる人々をたちまち笑顔にしてしまうような存在だったという。ジャックには、とにかく、生きていることがひたすら嬉しかった。彼はいつも走っていたそうだ。彼自身、「子供時代、走ってない日はなかった」と言うほどに。

 ただ、何かの特定の目的のために走ることは、しなかった。それは大人の考えで、子供のそれではない。彼は、未だ見たことのないものに出会いたくて、ただ走った。生きている喜びを実感したかったのだ。まるでリレー走のように、ひとつ一つ確かめては、どこまでも走っていった。

 幼い子供を観察すると、しばしこのような現象を目撃する。子供は無邪気に走り出す。ただ生きているだけで楽しいといわんばかりだ。子供とは違い、大人は無邪気に走り出すことなど、できないだろう。坦々と滑っていくような人生に流され、単調な日々に飽き飽きした社会人たちは、生きていることそれ自体が楽しいとは思えなくなる。毎日のストレスに押しつぶされ、未来に希望を持つことができない大人がいかに多いことか。そんな私たち大人に対して、子供が教えてくれるのは、天真爛漫な姿勢であり「生きていることそのもの」の楽しさなのだ。彼もまた、そんなことを大人に示唆するような子供だったのだろう。

 彼は5歳の時に失明の事故に遭うのだが、それ以前は、何にもまして光に魅せられていた。彼は、家の近所の建物や通りに光が射しているのを、何時間でも飽きずに眺めたそうだ。暗闇でさえ光を有しているように思えたほどだった。この世の何もかも、閉じた瞼の内側に見えるものまで、大いなる光の奇跡が存在しているようだった。

 休暇のある日、田舎で過ごしていたジャック一家は、パリに戻る準備をしていた。その時、幼い少年は不思議な予感におそわれ、悲しみでいっぱいになった。突然、田舎の光あふれる庭を見回しながら、彼は泣き出してしまったのだ。そんなジャックに対して、母親は不思議に思い、「どうしたの?」と言ったが、それに彼はこう答えた。「僕、もう二度とこの庭が見られないんだ」

 田舎からパリに戻った3週間後、事故は起きた。教室で他の生徒とぶつかった拍子に、机の角で頭を打ち、さらに、掛けていた眼鏡のフレームがまともに両目に突き刺さった。片目は眼球摘出、残った方の目も網膜がずたずたに傷ついていた。彼は完全に失明してしまったのだ。

 ここで、自分に置き換えて考えていただきたい。想像できるだろうか。不意の事故によって、あなたが光のない世界に突然放り込まれ、残りの一生をその状態で生きていかねばならないとしたら、どうであろう。リアルに想像できないかもしれないが、全力で否定したい現実ではないだろうか。多くの人はその現実に絶望し、生きていくことすら嫌になってしまうに違いない。実際のところ、中途失明した人の中で、自殺される方は多く存在する。

 しかし、ジャック・リュセイランは違っていた。不思議なことに、彼自身は失明に対して、全く絶望していなかったのだ。驚かされることに、彼自身は、それを「あるがままの現実」として受け入れ、さらに「神からの啓示」であるとも言ってみせた。もしも私たちが失明したとしても、このような態度で受け入れることができるだろうか。私たちも、人生の苦しみから前向きな意味を見出すことができれば、どれほど美しいことだろう。

 もちろん、彼の場合は、両親の影響も大きかったように考えられる。両親は、事故で光が「奪われた」とか、不具者になったとか、息子にことさらに言わなかったのである。親として、これ以上ない態度ではないか。普通の大人には、このようなことは決してできない。彼の両親は、子供時代に起きる他のいろいろなことと同じように、事故をごく自然に受け止めた。取り立てて構えることもせず、盲目だからと特別扱いすることもなかったのだ。それに実際、特別扱いする理由など、何一つ存在しなかった。

 彼の本において、両親に関しては、最初の数ページしか書かれていない。しかし、そこに述べられていることは、全ての親が望み得る最高の誉め言葉に匹敵する。リュセイラン自身、次のように言っている。

両親は保護、信頼、暖かさそのものだった。子供時代を振り返ると、今でも暖かな感覚が私を包み込む。まだ自分一人で生きて行かなくてよい、愛してくれる人にゆったり抱かれていればよいという、独特の感覚だ。両親は、どこにでも、私を抱いて行った。子供時代、一度も地面を踏んだ気がしないのは、きっとそのためだろう。私はいつも、外に出かけては、また無事に帰って来ることができた。光が鏡で反射する様に、私も危険や恐怖を跳ね返していた。これが子供時代の喜びだった。

 愚かな大人がわざわざしない限り、子供達は自分の境遇に不満を抱かないものである。8歳児には、「あるがまま」の世界が、最良の世界なのである。苦悩も怒りも、まだ8歳児は知らない。不公平感を抱くことはあるかもしれないが、それは、人から不公平に扱われた場合に限る。「失明という出来事」は、子供にとって神の啓示なのだ。

 

 両親は、彼の失明をただ見守った。「不運なことだ」などと状況を悲観することなく、ただ彼に対し愛を注ぎ続けたのだった。これが、ジャックにとってどれほど啓発的な教育だったことか。彼自身も述べている通り、事実をありのままに受け入れることができなくなるのは、愚かな大人が介入してきた時だけなのだ。後に、ジャックの母親は彼と共に点字を学び、彼専用の家庭教師になった。

 このように、事故によってジャックは盲人になってしまった。だが、驚くべきことがその直後に起きた。五感の一部である視覚は閉ざされてしまったが、どうやら彼は全盲であるに関わらず、「見る」ことを習得し始めたようだった。内なる世界から、彼の中で光が溢れてきたのだ。なんと彼は、視覚ではないやり方で、「見る」ことを習得したのだと言う。そんな彼の内的世界の探究を、彼の言葉を引用して見ていこう。

すぐに習得できたわけではない。手術してしばらく経たなければ、無理だった。手術してすぐは、目でモノを見たいと思っていた。そのため、今まで通りの見方を試そうとしていた。事故以前にモノを見る時、いつも使っていたようなやり方で、目を使って見てみると、そこはもやもやした苦しさ、虚しさでいっぱいになっていた。それは、大人が「絶望」と呼ぶ感情にも似ているものだ。

 とうとうある日、私は見方を間違えていたことに気が付いた。すでに、目それ自体は使い物にならないのだ。あまりにも単純な間違いだった。つまり、度が合っていない眼鏡を使用するような間違いを、犯していたのだ。目によって遠くを、そして余りに表面を見ようとしていたのだ。そこで私はやり方を変え、今までのように目を使う代わりに、「世界を、他の感覚を用いて自分の内奥から」見ることにした。

 そうすると、すぐに全世界の物体が寄って来て、新たに組み直された。私は、その時、光のほとばしりを感じた。それがどこから出ているのか、最初はわからなかった。私の内部からなのか、それとも外部からなのかさえ理解できなかった。だが、確かに光がほとばしっていた。それは紛れもない事実だった。光が確かにあったのだから。

 光だけではない。色彩すらも存在した。父、母、知人、通りで出会う人々、それぞれに特有の色があることを、私は盲目になって初めて知った。今や、人の色は、人の顔と同じくらい、鮮明な印象を残すようになった。とはいえ、こうした色彩は、ただ面白いだけだった。だが光は、私の存在の証ともいえる。水が井戸から湧き出るように、光が私の内部から湧き出るがままにして、幸福感を味わっていた。

 あまりにも不思議な体験ではないか。だが、そのような「内なる光を見る」という独特な経験は、ある程度盲人には共通するような経験らしい。おそらく彼の影響によるものと思われるが、完全な暗黒の中で3週間生活するプログラムというものが、1990年代中〜終盤くらいから、主にヨーロッパで盛んに実践されるようになった。真っ暗闇の中で生活して2〜3週間経つと、闇の中で人がいる場所がわかるなどの不思議な体験が続出し、ジャックと同様の内なる生命の光を観る者さえ少なくないという。目隠しのようなレベルでは全然ダメで、実験を成功させるためには、全身のいかなる皮膚であれ、微細なものを含め、あらゆる光からシャットアウトせねばならないそうだ。ただし、体験者の話を聴く限り、元の生活に戻るとすぐ見えなくなるというのは残念なところではある。

 このようなリュセイランの逸話は、私たちのような普通の健常者にとっては、不可解なものがある。彼の言う「見る」という語を正しく理解するのは、容易ではないからだ。本の随所には、盲人ゆえに運動の自由がいかに制約されているかや、町や田舎を歩く際、付き添ってくれる友人達にいかに世話になっているかが、記されている。しかし同時に、こうした友人達は、ある意味で彼の方がよく見えているという事実を、程なくすんなりと受け入れていった。歩きながら、彼はよく、友人達に勝るとも劣らない速さで危険を警告したり、次の坂に何があるか告げたりしていた。

 身の回りの物体が、彼の「心のキャンバス」に生き生きと再現されていた。聴覚、嗅覚、触覚が通常の働きから大きく離れて、天啓的な役割を果たしていた。彼にとっては、全ての物体が、例え離れていても、一種の圧力のようなものを彼に感じさせたのだ。この圧力に知覚を総動員して応えるとき、物体との間に感じられる境界線がぼかされていくのだ。

 特に「見る」ことに関して、彼が何とか説明しようと試みた一文がある。興味深い文章なのでそれをそのまま引用してみよう。

並木道を歩くとき、木々が等間隔に植わっていなくても、その一本一本の位置を、私は指し示すことが出来た。それがすっくと伸びた高い木で、枝が梢近くに生やしているのか、あるいは葉が地面の一部を覆っているのかも、言い当てられた。

友人はこの能力に、とても驚いているようだった。これはひどく私の体力を消耗させたが、うまくやれた。それに、疲労は木々の数や形から来るのではなく、私の内部で生じるものだった。見るためには、昔の見方から離れなくてはならない。この状態は、そう長く維持できなかった。木々が私の方に来るに任せ、私が木々に歩み寄ることは、ちらとも考えてはならなかった。木々を知りたいという欲を、ほんの少しでも、木と私の間に入れてはならなかった。欲を出したり、いらいらしたり、成功に得意になったりすれば、たちまち「見え」なくなってしまうのだから。

 

 このような状態は、一般に「注意力」と呼ばれているものに過ぎないのだろう。だが、この域にまで高めるのは決して容易ではないと考えられる。

 

 だが、この内なる光も、消えることがあった。恐怖、怒り、短気は、ジャックをもとの盲人にした。自信を失い、行く手の障害物を恐れ出したが最後、たちまち動けなくなってしまう。その全てが、彼を苦しめ出した。目を失ったくらいでは消えなかったものも、恐怖心の前にはひとたまりもなかった。このメカニズムは非常によく機能したので、いきおい彼は注意深くならざるを得なかった。友だちと遊んでいる際、勝つことに熱心になったり、何が何でも一番になろうとしようものなら、たちどころに何も見えなくなった。文字通り、彼は霧の中に入ってしまったのだ。彼は次のように言っている。

嫉妬したり不親切になることは、決してできなかった。そうした途端、眼前に目隠しが下りてきて、手足を縛られるからだ。突如として暗闇が私を襲い、私はその中で手も足も出せないのだ。

しかし、幸福で満たされている時や、人を愛する気持ちでいる時には、私は光を見ることができた。だから、私が非常に若い頃から友情と調和を愛していたからといって驚くことがあるだろうか。そういうツールで武装されていた私は、道徳の経典など必要としなかった。私にとってこのツールは信号機のようなものだった。何をしてはいけなくて、逆に何をすればいいのか、私はいつも知っていた。私は明るい光を見ることをすればよかった。それが私に「いかに生きるべきか」を教えたのだ。

 彼自身の恐怖心よりさらに危険だったのは、他の人達の反応だった。本の中で、リュセイランは、自分たちの世界観を唯一絶対のものと考えなかった両親に、大きな信頼を寄せている。彼は、盲人達が「まだ目で見ている人達の無理解」に苦しんでいるのを見るにつけ、彼はますます両親の偉大さに感じ入っているようだ。リュセイランがどこかで述べているように、実際、父親は事故の後、息子にこんなことを言っていた。「何か見つけたら、いつも父さん達に教えるんだよ」と。何と型破りで伸びやかなアドバイスだろう。子供時代の創造力や知覚が、鈍い大人達から故意に押さえつけられなかったら、今日、私達はまるで違う世界に住んでいたのではと思わされる。
 そこで、視覚障害児の親達に「見えないものには分かりっこない、と決して言わないように。また、危ないからこれをするな、あれをするな、と言うのも、極力控えるように」と彼はアドバイスしている。大人の哀れみや恐怖や気後れが、盲人には何よりの障害になることが、リュセイランの体験談から察せられる。

 障害者にとって、親からの教育が大切なのは、盲人だけではないそうだ。聾者(耳が聞こえない人)も同じらしい。

 リュセイランの随筆集である『Against the Pollution of the I(自己の光を守って)』には、ある興味深いストーリーが掲載されている。オランダにある耳が聞こえない少女がいた。普通なら両親は、障害者用の施設に入れて育てるのだが、なんと彼女の親は、彼女を健常者と全く同じように育てることにした。両親は、全く耳の聞こえない彼女にたえず話しかけ、本を読み聞かせ、歌を歌ってやった。その結果、どうなったのか。彼女は、ずば抜けて知的で快活な女性に成長した。聾者にありがちな発音が不明瞭なところも、まるで見られなかった。彼女は現在、聴覚障害児の親達のカウンセラーとして活躍している。音楽も好きで、コンサートによく出かけるという。そこで書かれているように「私達は明らかに耳以外の所でも聞いている」のだ。実際、オランダの少女のエピソードは、『聞く』という行為そのものについて、改めて考えさせるものだろう。骨伝導などもある通り、彼女は触覚を用いて聞いているのかもしれない。盲人や聾唖者は、5感の一部がシャットアウトされるので、それ以外の感覚が非常に敏感になった結果だろうか。

 ちなみに、ジャック自身「見る」以外にも、他の盲人たちと同様、失明以降は「聞く」能力もずば抜けていた。点字を見ても、盲人の指先感覚は目を見張るものがあるが、聴覚もまた同じなのだ。彼はレジスタンス活動中、リクルートの面接を全て担当していたが、それは、彼が「人を見抜く」特殊な力、ほとんど確実に見抜ける力を、備えていたためだった。映像、色彩、音により育まれるこの特殊な能力は、幼い頃から彼の内にあったのだ。その一例として、彼の本の中で面白いエピソードが言及されている。幼少期、数学教師が、教室に入って来て、手をたたき、おもむろに授業を始めた時のことを、彼はこう記している。

 その日、先生はいつものように、冴えたところを見せていた。いや、いつもよりもっと冴えていたかもしれない。いつもは、話すときに語尾を1,2音階下げる癖があったのに、その日は語尾を落とさず、声がピンと宙に残った。まるで何かを隠したがっているようだ。何も知らない生徒たちの前で平静を繕い、最後までこの調子で押し通さねばならない、と思っているようだった。言葉の最後に来るとメトロノームのように正確に音階を落とすいつもの話し方に馴染んでいた私は、気になってそわそわした。なぜだかわからないが、私は先生を助けてあげたいと思った。しかし、先生が悲しんでいる証拠など何もないのに、助けるというのもなんか変だ。でも確かに、先生は悲しがっていた。しかも、あまりにもひどく落ち込んでいるように映った。なんとその一週間後、私達は、先生の奥さんが出て行ったという恐ろしい噂を耳にした。

リュセイランは続ける。 

望んだわけでも特に意識したわけでもないが、私は人の声の中に多くのことを読みとった。失明以降、私は話の内容より声色の方を気になるようになった。時折、授業中は先生の質問も生徒達の答えにも集中できなくなる時があった。みんなの声が頭に繰り広げていくイメージに、あまりに気を取られていたからだ。こうしたイメージの半分は、表面上の言葉と恐ろしく違っていたから尚更である。例えば、パコという生徒が歴史で100点を取ったことがあった。その時、私は呆気にとられた。パコの声は紛れもなく、何ひとつ理解していないことを示していたからだ。彼は、口先だけでテストの点数をさらっていた。彼の声は、中身のない、うつろな声だった。

 美しい声は、咳き込んでも、どもっても、変わらずに美しい。ちなみに、ここでの「美しい」という語の意味合いは深い。美しい声の持ち主は、美しい人格の持ち主なのだ。これに対して、醜い声は、柔らかく芳しく、笛の音のように、響くこともできる。しかし、まるで空虚なのだ。どう響いても、醜さに変わりはない。

 

 ジャックは、両親の方針によって、事故後も同じ学校に残り、翌年、クラスで首席になった。これは、失明になっても同じ学校に残るなど、当時では前例がなかったことだ。その後、成績抜群の彼は、やがて超一流の名門大学に合格することになる。やがて彼は、フランスで最高の師範学校、エコール・ノルマル・スペリオルに合格したが、ヴィシーのナチス占領軍寄りの役所から、入学を拒まれた。なぜか。役所の回答によると、身体的「欠陥」のせいだった。入学を拒まれた彼は、勉学を続けることが困難となり、そのため路頭に迷ってしまう。彼は困惑し、非常に落胆した。学問への情熱を拒否された彼に、何ができただろう。時はすでにナチス占領下のフランス。意気消沈するジャックだったが、そんな中で、彼にできることたった一つのことが残されていた。

3.レジスタンス活動への決意

 1940年5月10日、ドイツ軍はフランスに侵攻した。難攻不落と言われていたマジノ線を迂回されて侵攻されたフランス軍は、ドイツ軍の前になす術なく降伏した。いわゆる電撃戦である。これによって、ドイツ軍によるフランスの占領時代が幕を開ける。フランスにとって、暗黒時代の到来だ。フランスはナチスに占領されることによって、次第に自由な雰囲気を失い、快活な市民生活が消えていった。戦時中、日本も憲兵特高警察による統制によって、陰鬱な監視社会が訪れたが、フランスも同様だった。もちろんだが、悪妙高ナチスの占領下となると、日本とは比べ物にならないほどの緊張感だったことだろう。

 ドイツ軍のフランス侵入でパリが様変わりしたことに、少年ジャックは敏感に感じ取った。どうしてパリが変わったと思ったのか、彼自身にも分からなかった。表だっては、ドイツ軍はほとんど見あたらないし、人々の生活も以前と変わらない。何もかも前のままだった。それなのに、世界が何か恐ろしい方向に進みつつあるのを、彼はみんなの雰囲気から感じ取った。周りの緊張感や、隣人達が身を潜めだしたのが、彼には分かる。ユダヤ人が一人、また一人と呼び出されて行き、そのまま戻って来なかった。徐々に、皆が無口になっていくのが、感じられた。

 こうしたこと全てが、十代の少年の心をえぐった。それは得体の知れない、しぶとい病原菌のようだった。占領下の生活など、それまで経験したことがないだけに、想像もつかなかった。ドイツ軍は表向きは、フランスの後見人ということになっていた。だが、現実は違うように彼には映った。どう解釈すればよいのかわからなかったので、少年は途方にくれたのだった。

 やがて、一人の親友がナチスに連行された。その結果、彼はあまりの悲しみに打ち震えた。その後、リュセイランは重い麻疹で床に就いた。高熱のさなか、突然、状況が全てはっきりと呑み込めてきた。それは、内部から突き上げてるような思いだった。そんな中、彼はある決意を固めた。その間、彼の体は必死で病気と闘い続けていた。

 何という有り難い麻疹だったことか。それまで何週間も彼の中に頑固に巣くっていた恐怖、欲望、雑念や焦燥感は、すっかり別のものに生まれ変わった。麻疹にかからなかったら、一生元のままだったに違いない。病気が峠を越すと、彼は一人、声に出して言ってみた。「占領が、僕の病気なんだ」

こうして、鉄の意志が誕生した。新たに満ちた熱い血潮で、彼はいよいよレジスタンス活動に乗り出すことになった。

 今日、根の深い社会問題に直面するとき、私達もリュセイランのように個人的危機をあえて受け入れる心境になれたら、どんなにいいだろう。こんな病気観を受け入れるのは、失明を天からの授かりものと受け止めるのと同じくらい、難しい。しかしこれについては、直接「犠牲者」の声に耳を傾けるに限る。リュセイラン自身の結論は単純明快だ。「失明以来、不幸な思いをしたことがない」フランス・レジスタンス活動で人々のために尽くし、強制収容所でも平和を見出すことの出来た人物に、どう反駁出来ようか。

 彼は、麻疹という病から抜け出し、レジスタンス活動を始めることを決意する。ナチスに占領され、自分の知っているフランスではなくなっていくことが、彼には耐え切れなかったのだ。もちろん、レジスタンス活動は、ナチス側に見つかれば重罪で、死の強制収容所に送り込まれることは明白だった。そのため彼自身、超人的な勇気を持って、この活動に意気込んだ。すぐに参加する人を洗い出し、グループの編成に尽力した。彼が行動すれば、すぐに人が集まったのだ。その結果、ようやく組織が結成され、本格的な活動を始めることになる。

 さらに、全会一致でジャックがリーダーに任命された。彼の人間的魅力に、誰もが彼をリーダーとして選んだのだった。

 ついに時が来た。1941年の春、パリで、16歳のジャック・リュセイランは、52名の選り抜きの青少年を前にしていた。自分に課せられた大役の責任の重さに、ここ数日、彼はひどく興奮していた。今では、それも落ち着き、きっぱりした調子で、彼は52名に呼びかけた。

君たちは今夜、扉を開いた。そして、もう閉じることはできない。僕たちが今、一丸となってしようとしていることは、レジスタンス活動と呼ばれているものだ。ここにいる者は皆、未成年で、僕などは17歳にもなっていない。簡単にいかないかもしれないが、若いからこそ可能な活動もあるのだ。当分は、僕たちを子供と見て、ナチスも用心しないだろう。

ナチス占領下のフランスで、リュセイランはこうして、解放義勇団を結成した。その組織は「自由のための有志たち(Volontaires de la Liberté)」と呼ばれるレジスタンス・グループだった。続く1,2年の間に団員は600名に増え、地下活動の機関誌を出版配布し、撃墜された英空軍兵士の保護や復員のための組織を作ることになる。さらに、国境を越えてフランスの捕虜を送還するための偽造文書も作成した。

 

 その後、フランス自衛団という別のレジスタンスグループと合併することになる。そこでは新聞を刊行し始めるが、これらのフランスの人々に新聞で本当のニュースを伝える仕事は、あまりにも重要な任務であった。なぜなら、ロンドンのラジオはナチスによって妨害され、イギリスのラジオは聴くことは禁止されていたからだ。正しい情報は皆無であり、何が真実なのか、市民は混乱し続けていたのだ。その新聞は、のちにパリで最も重要な日刊紙「フランス・ソア」となった。その後の活躍により、リュセイランの結成した組織は、フランスの5大レジスタンス組織のひとつにまで成長し、共同指導者として、さらにリクルートも担当しながら、華々しい功績を数多く立てていった。

 解放義勇団の団員確保は、一切、青年ジャックに任されていた。ひとつには、並はずれた記憶力で、週ごとの新情報の要約を紙に書き留めずに報告できる才が、買われたのである。紙に書くと、敵の手に渡る恐れがあるからだ。しかし、もっと重要な理由は、前述のとおり、彼を知っているものが一様に認めるように、彼が「人を見抜く」特殊な力を備えていたためだった。

 だが、彼が面接した人々の中に、黒か白か、どうしても判別できない者が1人いたという。エリオと言う名前だった。おそらく何らかの特殊な訓練を受けていたのだろう。ジャックは悩んだ末に判別できず、とりあえず団員に入れてしまった。だが、これが間違いだった。そのエリオが後日、ジャックを含む約2000名の同志を裏切り、ドイツ軍に引き渡したのだ。時に1943年7月20日のことだった。6ヶ月間拘留されてゲシュタポの尋問を受けた後、ブーヘンヴァルト収容所に送られた。このときの総数は2000名。15ヶ月後、パットン将軍の隊がブーヘンヴァルトを解放した時、その内生き残っていたのは、リュセイランを含むわずか30名余りに過ぎなかった。


4.地獄からの奇跡の生還

 彼はレジスタンス活動の容疑で、政治犯として捕らえられた。占領下のフランスで、ナチスに歯向かう危険分子だと判断されたからだ。そして彼は、尋問を受けた後、地獄のブーヘンヴァルト収容所に入ることになった。

 強制収容所には道徳も倫理も存在しない。ブーヘンヴァルト収容所に到着した時、全盲のジャック・リュセイランは、身を守る術は何もなかった。仲間から引き離され、彼は自分を守ってくれる人と一緒にいることができなかったからだ。一日に昼と夜だけ支給されるパンとスープは、二日に一回は誰かに奪われた。彼はすっかり弱ってしまい、水に触ると、まるで火に触れたように指先が焼けつく気がしたものだ。唯一の幸運は、盲目のため、他の囚人のように強制労働に参加する必要がなかったことだった。

 こんな状況でも、彼は収容所にいた約三万人の囚人のために公式の広報係になった。拡声器から流れるドイツのニュースに、注意深く耳を傾けた。報道されない部分や、巧妙に言いつくろわれている部分は、彼なりに真実を推測する。地下室で、囚人の誰かがこっそり組み立てた秘密のラジオで、フランス、イギリス、ロシアのニュースも受信した。こうして得た情報をもとに、彼は収容所の各棟を回って、連合国軍のフランス及びドイツ侵入の進捗状況を逐一、報告した。まもなく、幼なじみや仲間の工作員のほとんどが逮捕され、彼らと合流したが、その手助けもあり、報告活動は継続された。

 この奉仕活動が、ブーヘンヴァルトにどれほど意義深いものだったか、想像もつかない。途方もない噂が飛び交い、収容所は混乱を極めていたからだ。噂では、パリは一日に一回は陥落した。一人残らず噂をばらまき合っていたのだ。不信感、苦悩が深く根を下ろし、誰もが騙し合っていた。落胆、恐怖、無知から生まれた嘘、中には悪意のこもった嘘もあった。仲間を苦しめて憂さ晴らししたいばかりに、仲間の家族、友人が住む町が空襲で壊滅した話を、でっち上げている者もいた。

 ニュースを紙に書き、仲間の手を借りて数カ国語に翻訳して配ることもできたかもしれない。しかし、人との触れ合いを欠いたこの方法では、「心に直接響く真実」が欲しいという囚人達の欲求に応えることは出来なかっただろう。皆が待っているのは、前に来て直接伝えてくれる人、その人の落ち着き、その人の生の声だ。ジャックが、その声になった。

 こうして彼は、朝から晩までこの仕事に打ち込んだ。ニュースを整理して、収容所の各棟に伝えて回る。ドイツ語とフランス語は直接自分で伝え、その他の言語は仲間の助けを借りた。まずドイツ軍司令部の発表を逐一繰り返し、次に彼なりの解釈を告げる。各棟に入るたび、彼はその場の雰囲気を探った。

 棟全体のざわめきや匂いから、そこの状況が察せられた。彼曰く、絶望には独特の匂いがあるという。そして信頼も同様らしい。両者の匂いはまさに両極の世界を成していると言う。こうして判断した様子に応じて、彼は伝えるニュースを加減した。彼は後にこう言っている。「人間の気力はもろいものだ。言葉ひとつ、いや抑揚ひとつで、たちまち挫けてしまうことがある」

 不思議なことに、他人の恐怖に耳を傾けているうち、彼の抱いていた不安感はいつの間にか消えていた。なぜだか、自然と朗らかになった。別に努力したわけでも、意識したわけでもないのに、常に明るく振る舞えた。この明るさは、もちろん彼のためになったが、同時に仲間達も元気づけたようだ。盲目の小柄なフランス人が晴れやかな顔で入って来て、よく通る声で頼もしいニュースを告げていくのを、皆、心待ちにするようになった。何もニュースがない日でも、彼が来ないと承知しなかった。

 リュセイランのブーヘンヴァルト体験を綴ると、何ページあっても足りなくなる。到底、一括りでまとめることなど出来ない。ここでは、彼が収容所を生き抜く感動的なエピソードだけにフォーカスして、この文を終わりたいと思う。そこで『And There Was Light』に書かれている収容所での体験を綴った部分を転載して、この寄稿文の筆を置かせていただく。

 

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病人棟は、見た目は他の棟と変わらなかった。違うのは、他の棟が平均300人収容なのに対して、この棟には1500人が押し込まれ、食物の配給率は他の半分だったことだ。入所者は片足、片腕、穿頭術を受けた者、聾者、聾唖者、盲人、両足のない者、失語症、運動失調症、てんかん、壊疸、腺病、結核、癌、梅毒等の諸患者、また70歳以上の老人や16才以下の少年、窃盗狂、浮浪者、変質者と続き、最後にいろいろなタイプの狂人がいた。表情を曇らせていないのは、この狂人達だけだった。

 病人棟には、完全な者は皆無だった。完全でないことが、入所の条件だったからだ。その結果、入所者はバタバタと死んで行き、この棟はますます軽視されていく傾向にあった。この棟では、死者につまずくより、生きている者につまずく方が意外だった。しかも、その方が危険だった。

 すさまじい悪臭で、それを消すのは風向きによって流れてくる火葬の煙の臭いだけという始末。幾日もの間、歩くこともままならず、私は這って進んだ。病人、死人がごろごろ転がっている床を、手探りで這っていくのだ。手をずらすたびに、死人や怪我人の傷口に触れてしまう。もはやうめき声以外、何も聞こえなかった。

 その月末、突然、私は限界に達して、病に倒れた。胸膜炎だったのだと思う。医師で友人でもある数名の囚人が、私を診に来てくれたそうだ。だが、私の胸の音を聞いて、もう駄目だと思ったようである。彼らには何も出来なかった。ブーヘンヴァルトには薬などあるわけもなく、アスピリンすらなかったのだから。

 胸膜炎に加えて、すぐに赤痢も併発した。両耳が感染症を起こし、二週間、私は聴覚を失った。やがて丹毒で私の顔は醜く腫れ上がり、いろいろな合併症で今にも敗血症を起こしそうになった。こうしたことは後に、五十人以上の仲間から聞かされて知った。私自身は何も覚えていない。

 特に親しみを覚えていた片足のフランス人少年と片腕のロシア人少年が、四月のある朝、私を担架で病院に運んでくれた。もちろん収容所なので、病院といっても、治療の場ではない。死ぬまで、或いは回復するまで、病人を単に寝かせておくだけの場所だった。

 その友人には、後になぜ私が収容所から生還したか呑み込めなかったそうだ。「君はつくづく変わってる」と、二人からいつまでも言われたものだ。「あそこに運んで行ったとき、君は四十度を超す、すごい熱だったけど、意識はしっかりしていた。はっきり状況が飲み込めているみたいで、僕達に『自分のせいで迷惑がかからないように』と、しきりに言ってたよ」と何度も言われた。当時、その時の体験を言葉で表すのは無理だった。彼らには、未だに表せないでいる。

 病気は私を恐怖から救い、死からさえ救ってくれた。しかも、病気にならなければ生き延びることは出来なかっただろう。病気で倒れるや否や、私は意識ははっきりしたまま、別の世界に入って行った。朦朧としていたのではない。友人の言った通り、私はそれまで以上に、落ち着いた表情を見せていた。それはまさに奇跡だった。

 病気の経過を、私はしっかりと観察していた。体の諸器官が次々にやられ、バランスを崩していくのが分かった。まず肺、次に腸、それから耳、全筋肉、最後に心臓が侵された。心機能が衰え、妙にうつろな音が体中を満たした。こうして観察しているものが何なのか、私にははっきりわかっていた。それは、この世を去ろうとしている私の肉体。すぐには去りたくない、というより、去ることをまるで望んでいない私の肉体だ。その肉体はまるで、ずたずたに刻まれた蛇のように、くねくねとあらゆる方向にのたうち回りながら、私に苦痛を与え、この世を去りたくないと必死で告げていた。

 死が迫っていたと、書いただろうか。もしそうなら、訂正したい。確かに病気や苦痛に見舞われていた。しかし、死は訪れなかった。正反対に、生命が私をしっかり捉えていた。「生きている実感」が私を包み込んでいく。

 生命は私の中でひとつの実体となった。私より千倍も強い力で、私の体を破って、押し入ってきた。生命は血でも肉でも、知恵でもなかった。波が煌めくように、光が戯れるように、私の方にやって来た。目や額の向こうに、頭上に、生命が見えた。私に優しく触れ、私を満たし、私の中から光がこんこんと溢れ出た。いつの間にか私は、生命の泉に浮かんでいた。

 恍惚としながら、思わずいくつかの名前をつぶやいた。つぶやくと言うより、歌になって自然にこみ上げてきたのである。私は言った。「主よ。イエス・キリスト様、神様」このことを、頭で考え直してみようとは思わなかった。形而上学をこねくり回している場合ではない。生命の泉が、私に力を漲らせて行く。飲んでも飲んでも、まだ飲み足りない。この天の泉を去るつもりはなかった。それは懐かしい感情だった。事故の後、失明に気付いた時も、こんな感情を味わったものだ。同じことがそっくりそのまま繰り返されていた。私の命を支えてくれる生命に気づいたのだ。

 主はこの無力な魂に、哀れみをかけて下さった。私には、確かに自分を助けることは出来なかった。誰だってそうだ。この時、それを悟ることができた。

 だがひとつだけ、私にも出来ることが残されていた。神の助けを、神が吹きかけて下さる息を拒まないことだ。それが私に課せられた、困難かつ素晴らしい、唯一の戦いだった。つまり、自分の体を恐怖に奪い去られないようにすること。恐怖は死を招び、喜びは生を支えるのだから。

 私はゆっくりと、死の恐怖から抜け出していった。5月8日、私は自力で歩いて病院を出た。まるで骨と皮だったが、奇跡的に病気は治っていた。余りに幸福だったので、ブーヘンヴァルトも何とか我慢できる場所に思えてきた。もしパンにありつけなくても、希望を食べて生きていけるだろう。

 これが真実だった。その後、さらに11ヶ月も収容所暮らしは続いた。しかし今、最悪の条件下で過ごしたその330日を振り返っても、いやな記憶はひとつもない。私は御手に抱かれていた。御翼の陰に憩っていた。この活き活きした時間に、名前はいらない。自分のことを心配する必要はなかった。そんな心配は、滑稽にすら思えた。それは危険だし、不道徳だ。私は今や、自由に人を助けることが出来た。程度はささやかかもしれないが、私なりのやり方で助けることが出来た。

 生命を守っていくにはどうすればよいか、人々に教えようと努めることが出来た。私の中に溢れかえる光と喜びを、他の人の方に向けることが出来た。この時から、私のパンやスープは盗まれなくなった。二度とそういうことは起きなかった。たびたび夜中に起こされ、慰めを必要とする者の所に連れて行かれた。離れた別の棟まで行くこともあった。

 ほとんどの人が、私がまだ学生であることを忘れていた。私は「盲目のフランス人」となった。さらに、ただ「死ななかった男」で通っていた。私に秘密を打ち明ける者が何百人もいた。何としても、話を聞いてもらおうとしていた。フランス語で、ロシア語で、ドイツ語で、ポーランド語で。出来るだけ理解してあげようと、私は全力を尽くした。こんなふうに、私は生きてきた。こうやって生き延びた。これから先は、もう言葉にならない。

 
こうして、収容所から生還したところで、彼の本である『And There Was Light』は終わっている。彼のこの経験は、収容所におけるキリスト者の体験として、西洋では有名だという。どうやら教会で読まれることもあるそうだ。

 彼は戦争が終わると結婚し、1950年代に米国に渡米した。そして、ウェスタリザーブ大学とハワイ大学で文学を教えることとなる。1971年に彼の最愛の妻フランスに戻る旅行中、彼は自動車事故で妻マリーと一緒に事故死したのだった。


※この文章は、彼の英文の著作である『And There Was Light』と『Against the Pollution of the I』を参考に書かせていただいた。書いていく中で、引用した部分は全て私の翻訳になっている。日本語として美しい文になるように重視したため、本来の意味と違う解釈をしている部分や、意図的に削除した文もある。もしも興味を持ったならば、ぜひ原典である上記の2冊を当たっていただきたい。